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桝野仁志プロフィール

2018-07-08 [記事URL]

 

はじめまして 桝野 仁志と申します。

私は、大学を卒業してから日雇いバイトや住み込みの仕事をしながらお金を貯めて世界中を旅行していました。29歳の時に旅行から日本に帰ってきましたが、何度も面接を受けても定食につくことができませんでした。

そして、スポーツジムにバイトをしながら将来を模索していました。

ある日何気なく、コンビニに行った時に専門学校がいくつも載った雑誌を手に取りました。その時、パラパラと見ているとなぜか鍼灸師の専門学校に目が止まりました

そういえば、学生の時に陸士競技をしていた時、ケガをして走れない時には鍼灸院にお世話になったことを思い出しました。

そして一年後、鍼灸専門学校に入学しました。しかし、授業内容は西洋医学ばかりで、東洋医学の授業は少なく、資格を取るための授業ばかりでした。治療技術の授業も少なく技術向上は見込めませんでした。

そこで、自分が通っていた専門学校に昔からある勉強会に参加しました。その勉強会の講師の先生の知識や治療技術のすごさに感銘を受けました。

それからは、その先生が勉強会を開催する時はかかさず、参加をしました。そして、先生の治療院にも研修生として治療技術を見て学ぶことができました。

それは、専門学校を卒業して鍼灸師になってからも3年続きました

そうこうしている間に、その勉強会で知り合った仲間たちが一人また一人と独立をしていくのを目の当たりにしていくと、そろそろ自分も治療院を持ちたい気持ちが強くなってきました。

それなら半年くらいかけて物件を探してとうとう自分の治療院を開業することができました。

そして、僕自身が選んだ道は今の仕事をやりつつ二足のわらじで自分の治療院をやっていくことでした。

仕事を続けながら治療院も併用して行うことは簡単なことではありませんでした。でも、少しずつ患者さんが増えてきました。

そうこうしている間に4年の月日が流れました。その間、経営の勉強もしましたが治療院が上向くことはありませんでした。

そして、2018年にお世話になっていた先生が治療院を閉院して、新しくレンタル治療院を開院することになりました。

そこで、週一日だけ先生の治療院で働くことになりました。

鍼灸師として、新しく一歩を踏み出すことになりました。


松本悠哉 プロフィール

2018-07-08 [記事URL]

初めまして。松本悠哉と申します。

私は社会人を経て鍼灸師となりました。

母は私を出産後リウマチを発症しました。年齢とともに少しずつ進行

父が亡くなると、精神的ショックから悪化。

徐々に悪化していくため。手術をし人工関節をいれました。

学生時代はまだ、鍼灸治療というものも知らず、病院で治療していくしかないものだと思っていました。

手に職をという思いで資格をとり資格をとってからは整骨院で働きます。

整骨院ではおもにマッサージ治療をしていきますが、なかなかとりきれない痛み

根本的な治療にいたってはいないのではないかという思いのなか

出会ったのが、伝統的、東洋医学的鍼灸治療でした。

伝統的東洋医学について学びを深め実感していくにつれ

鍼灸治療の奥深さ、可能性を感じて、いきます。

母の手術は資格をとれる年齢ではかたので、どうしようもありませんが、

鍼灸治療を知っていればという思いがあります。

現代医療も進歩していきますが、それでも原因不明といわれたり、加齢のせい、

と言われたりとなかなかとれない痛みもあります。

そんな痛みに悩む人の助けになれたらと思います。

 


井上琥結プロフィール

2018-07-08 [記事URL]

初めまして、井上琥結(こころ)です。

私は、最初からこの鍼灸の世界に入ったわけではありません。
大学卒業後、一般企業で働いて鍼は一生受けることはない、そう思っていました。社会人になり、普通にOLをしていた時に、母からの一本の電話、「駅前に鍼灸整骨院ができたよ」と私の携帯にかかってきました。その時はその電話が私の人生は大きく変えることになるとは思ってもみませんでした。

社会人時代

大学卒業後、一般の企業に入社し、お稽古フラワーアレンジメントやケーキ、パンなどのお教室に通い、同僚、特に同期と飲みに行ったり、国内旅行や海外旅行を楽しむ普通のOL生活を楽しんできました。私は本社勤務でしたが、工場もあったため7月にも電力削減のため夏休みがあり旅行三昧。おまけに最初は5時退社で残業禁止だったため、5時過ぎから飲みに行けるという、日々を送っていました。アフター5を存分に楽しむ、そんな中、阪神淡路大震災が起こります。

交通手段がないため歩いての出勤で、コートに運動靴、リュック姿で歩いていると、茶髪のトラックのお兄ちゃんが「頑張れよ!」と道の向こうから大声で声をかけてくれました。
普段だったら近づくことはない怖そうなお兄さんの何気ない応援のたった一言でしたがうれしかったです。また、震災後、買い出し中で駅近くの踏切に通りかかったとき、明らかに平常とは違う叫び声、電車の警笛、キーッというブレーキ音が鳴り響き、一瞬で空気が変わるのを感じました。被災した人が踏切内に入り、それを助けようと追いかけて入ったのでした。「今この瞬間は助けられても、一生その人を助けられるわけじゃない」という言葉が今も私の中に残っています。あの時、たくさんの人に助けてもらいました。私も何かできることでお返ししたいと思います。
今回、大阪で地震、そして倉敷での大雨がありその時の事を思い出しました。

 

一度目の転職。
周りからは、今の収入よりいいところはないからそのまま続けるようにアドバイスされますが、退職後に手に職をつけようと経理の勉強をし簿記2級を取得しました。
資格があれば経理の仕事ができると思っていましたが、なんと求人は資格よりも経験重視というものでした。資格があっても、未経験だと厳しいことが判明します。
応募すらできないことも多かったですが、やっと未経験OKの会社を見つけ、面接はとんとん拍子に進み、結局、そこが約10年勤めることになる会社となります。社会人になってから、頭痛がひどくなり起きていられないくらい、座っていてもしんどいし、寝ていてもしんどい、そんな時が年に何回か起こるようになります。頭痛がひどくなると吐くことも。こうなると、お薬も飲めないので何もできない状態になります。

 

鍼灸との出会い。

ある日、左背中が痛くなり力が入らなくなり、事務の仕事をしていたのに、線を引く定規を押さえることができなくなります。ノートに線を引くことができず、病院に行きますが、結局薬を出すかシップを出すかしたしてもらえず、痛くなったらシップを出すのでまた来てくださいで終わってしまいました。
まだ治ってないのに、どうしたらいいんだろう、という思いでいっぱいでした。このままだったら、事務の仕事もできないし、一度はもうやめるしかないのかな、と思ったことがあるくらい追い詰められていた中の母からの電話でした。駅前に、鍼灸整骨院ができたよ、と。
本当は、その電話の日に別の鍼灸整骨院に行く予定にしていましたが、別の日にその鍼灸整骨院に通い、腕の方はだんだんよくなっていきましたが、鍼灸を受けようとは思わず月日が流れていました。ただ、整骨院に行く度、鍼灸の張り紙が目に入ってはいたので、ある症状で、鍼灸はこれ以上悪化させないように予防になるのかと聞いてみました。
そして、鍼灸で効果はある、との答えに鍼を受けてみました。その先生との相性がよかったのか、体調がよくなるのを感じ、その日以来ずっと鍼治療を継続しています。鍼を受けるようになると、東洋医学に興味を持ち、今度は自分でも学校へ行こうかな、といろんな本やホームページを見るようになり、2年にまたがり資料請求し、学校見学をし入学する決心をしたのです。そして、鍼灸治療のおかげで、年に数回あった頭痛も、寝込むことはなくなり、あったとしても長時間引きずらないようになっていきました。頭痛外来で見たもらったところ、偏頭痛も生理と関係していることもあり、私の場合は生理前、前日や前々日に起こっていたことがわかったのです。頭痛が起こりそうになると予防で飲んでいた月に何錠もお薬も、今は手放せました。同時に、仕事などが休みになると、毎年年末は寝込んでいましたが、いまはすっかりなくなりました。
もちろん、週末に寝込むこともなくなりました。

 

鍼灸専門学校から現在まで

専門学校の試験に合格したのが9月。そして、それから学校へ入学するまでの間に、池田の気胸死亡事故が起こったのでした。ニュースが流れたとき、私と父の二人がテレビを見ていました。気まずい空気のまま、どういう状態が起こったのかわからず、私からは何も言うことができませんでした。
そして、鍼灸に対していい印象がない父からは、口をきいてもらえず、鍼灸学校へ行き鍼灸師になるなら、今後一切、私とは縁を切る、それから兄弟とも一切会うなと。家からも出ていけ。
そんな父を説得してくれたのが、母でした。学校へ行っている間は家から通えるように。ちなみに現在もそのまま実家です。
1年生の学祭で、学校を見てほしくて両親をよびました。少しでも、学校の雰囲気を知ってほしかったという思いからでした。学祭での父の感想は、みんな活き活きしていて明るい!ということで、ほんの少しですが安心したようです。ただ、今も父は鍼はNGのままです。
まあ、母も私の刺鍼は受けたことはありません。寝違えた時に、刺さない鍼をしたら首が回るようになったので少しはわかってもらえたのかなっと思っています。

少しづつですが、両親も鍼灸に対して理解してもらえるようになり(と勝手におもっているだけかもしれませんが)、寝る前には毎日両親とお灸しています。


西野晴美プロフィール

2018-07-08 [記事URL]

はじめまして。鍼灸師・介護福祉士の西野晴美です。

今あなたがこちらにたどり着いたということは、介護を頑張りすぎて少し心が疲れてしまった方が多いのではないでしょうか。
私も介護経験があるのですが、その私がご家族の介護をされている方をサポートしたいと思うようになった経緯を聞いていただけますでしょうか。

 

私は子供の頃にモノづくりに興味をもち、工業系に進み、モノづくりに携わる仕事をしていました。
その仕事が本当に楽しく天職だと思い、仕事もプライベートも大変充実した毎日を過ごしていました。

 

ところが、突然、予想もしていなかった家族の介護が始まったのです。
家族介護に直面して35040時間、試行錯誤の毎日でした。
最初の頃は職場の理解を得て、仕事と介護の両立ができていました。
しかし、状態の悪化などで仕事を休まなければならない日も増え、職場に迷惑をかけることになってしまい、余儀なく離職せざるを得ない状況になりました。
介護はもちろん、家事もしなければならないし、お金がないと生活もできない…。
身内に心配をかけたくないのと、家族のことだから人に甘えてはいけないと、自分でなんとかしようという気持ちがとても強く抱え込んでしまいました。
その結果、気持ちがいつも何かに追われていて余裕もなく、イライラしたくないのにしてしまう…。
そして、自分のことは後回しで、オシャレなどに気を遣う暇もなく、そのうちにいろんなことが諦めに変わってしまいどうしようもない状況でした。
経済的にも大変でしたが、精神的な負担の方が私には大きかったと思います。

 

当時、通っていた鍼灸接骨院の担当の先生は、施術をしながら日々の悶々とした不安や不満を聴いてくださいました。
あまり近しい存在だと話したくても話せないことがあるので、本音で話せたのはとても良い距離だったんだと思います。
アドバイスをくれたり励ましてくれたりと、重たい気持ちとカラダを軽くしてもらえたことが毎日を乗り切る原動力になっていました。
今思えば、そのことが今の私の原点なのだと思います。

 

私は家族介護の経験から訪問介護ヘルパーとして働くようになりました。在宅介護は、施設のように介護しやすいよう環境が整っているわけではありません。腰や手首が痛くなることが多く、先生のところに通いながら介護の仕事も楽しく頑張れました。
私を育ててくれた先輩ヘルパーさん達は、とても勉強熱心で介護の仕事に誇りをもっておられ本当に介護の仕事が好きでやっておられる方達でした。でも、年齢・体力・長年のカラダへの負担でヘルパーを続けられなくなってしまう方もおられます。
私は家族の介護が大変だった経験と、本当に介護の仕事が好きなのに続けられなくなってしまう現実を見て、介護をする人たちをサポートしたいと思うようになりました。
そんな私に鍼灸師になることの背中を押してくれたのは、私をサポートしてくれた鍼灸接骨院の先生です。

 

鍼灸師となり、患者様の中に家族の介護を何年もされている方がおられます。なんとか楽にして差し上げたいと強く思いました。どんな患者様もそうですが、通っておられるうちに不意に口をついてでてくる胸の内を聴かせていただくことがあります。そんなとき、鍼灸師として出来ることはもちろんのこと、人としての行いがまわりまわってその方にプラスになるようなことができればという思いで続けております。
私にとって訪問介護先の利用者様や、鍼灸師としての患者様との何気ない会話の中には人としてのたくさんの学びや癒しがありました。
サポートする側になった今も、私自身もしっかりサポートされていることにとても感謝おります。
私も鍼灸接骨院の先生にサポートしていただいたように、そしてたくさんの学びと癒しを与えてくれた方々のように、あなたのお役に立てれば嬉しい限りです。ご来院お待ちしております。


原田健太郎 プロフィール

2018-07-08 [記事URL]

私の父は指圧師でしたので、鍼灸師・柔整師として治療家の世界に入る事に素養があったのかもしれませんが、実は20代後半まで治療家の世界とはかけ離れた機械メーカーのエンジニアとして関東地方で働いていました。

そんな中、ふと自分の人生を見つめ直そうという気持ちで会社を辞め、旅に出る生活を送っておりました。収入源はフリーターとして、サーカスのテント張りやクロネコヤマト、新聞配達に酒屋、ケーキ屋など、多様な仕事をしておりました。

多様な仕事とは言っても、実家に居候状態で過ごしておりましたので、時間のある私を見た父から、ほぼ強制的に民間療法の資格を取りに行かされました。

今考えれば、父は自分の治療院の後継者として治療家の世界に入れることを企んでいたと思います。

父の企みどおり、民間療法の資格を取得すると、次は国家資格を取った方が良いと勧められ、柔道整復師の専門学校に通う事になりました。民間療法の時の勉強とは桁違いに難しかったのですが、高校以来まじめに勉強することが無かった私には、この専門学校で学ぶ事が今まで習ったことの無い教科ばかりで、逆に新鮮で楽しかったです。

ケガから見えた治療家への道

とはいえ、専門学校の学費は結構高かったので、学費の捻出のためにしていた配達員のバイトの帰り道、バイクで事故に遭い左手・腕に3か所の骨折と脱臼、一ヶ月半の入院と、生まれて初めての経験を沢山しました。ちょうど専門学校で骨折や脱臼の事を習ったばかりで、病院の先生にいろいろ質問させてもらえましたし、入院患者さんの気持ちが分かることができたのは大きな収穫でした。

事故のケガは結構大変で、複数個所の骨折のために手術を3回行いましたが、最終的には腕にちょっとした後遺障害が残ってしまいました。

腕に障害がある状態で専門学校に通っていましたが、資格を取っても整骨院の仕事が果たしてちゃんとできるのだろうかと悩んでいたころ、父が急逝してしまいました。治療家として何も教わることなく逝ってしまったのが今でもチョット心残りです。

そして父の後ろ盾の無い状態で、専門学生のまま民間療法の施術のみで父の治療院を引き継ぐことになりました。

通常であれば、開業後は新規の患者さんを獲得するのが最も難しいと言われる中、父を慕ってくれた患者さんが施術に来てくださいました。

父の施術がどんなだったか患者さんに教えてもらいながら、仕事を引き継ぐことができたのは、本当にありがたかったです。

ただ、その頃はケガの後遺症のある身体で、今後どのような施術を続けていくのが良いのか、試行錯誤しながら経営を続けておりました。

そんな時、事故の保険金が入ることになったのがきっかけで、鍼灸の専門学校に入学することを決めました。

鍼灸師であれば、腕への負担も少なくまた東洋医学にも以前から興味のあったこともあり、鍼灸の専門学校の中でも臨床に力を入れている森ノ宮医療学院専門学校に入学することにしたのです。

睡眠へのこだわり

平成16年に吹田の南千里で治療院を開業して14年、臨床の経験の中で私の施術中に眠ってしまう患者様から、“眠った後のスッキリ感がたまらない”というお声を頂きました。これが、お一人でなく複数の方から感想を頂いたことをキッカケに、寝おちと睡眠負債の解消に特化した治療法を磨いてまいりました。

なぜ私が睡眠にこだわりを持っているのか?というのは、私自身の寝付きが悪く毎日寝るのにお酒の力を借りていたからです。お酒で寝る事はできても、朝の目覚めは決して良くないですし、日々の疲れはなかなかとれなくなっていました。いわゆる『睡眠負債』の状態です。そこで、自分自身が直接感じている『睡眠負債』に着目し、即返済できる方法はないか?心も身体もリラックスできる方法はないか?即効性も持続性もある方法はないか?と本気で考え、編み出したのが、この『無水温泉 睡魔セラピー』なのです。


田中実プロフィール

2018-07-08 [記事URL]

体重が、5000gと大きな体で産まれ、特に大きな病気をすることなく、丈夫な体でスクスクと成長していました。

しかし、中学時代に生死を彷徨う様な交通事故を起こしました。交通事故を起こすまでは、健康で腰や首もまったく痛くなることがない体だったのが、交通事故がきっかけとなり、腰痛と首の痛みがでるようになりました。

はじめは、整形外科のリハビリに通っていたのですが、電気をあてたり首と腰の牽引をすることを行っていたのですが、まったくよくならず、痛みを抱えながらスポーツをしたり日常を過ごしていました。

高校に入っても腰の痛みに悩んでいた私を見るに見かねて母が知り合いに教えてもらったという鍼灸整骨院へ通うようになりました。

そこで初めて鍼灸治療をしてもらい今まで悩んでいた首の痛みと腰痛が楽になっていくことが感じました。

高校生ながらにリハビリに通っていたのはいったい何の意味があったのだと考えるほど、鍼灸の効果に驚きました。

中学時代の交通事故の経験から医師に憧れてたが、高校時代に勉強が嫌になり文系へ進みそのまま文系大学へ進学しました。しかし、大学3回生になり就職を考えるようになり医師への憧れを諦めきれず医学部への編入試験を受けました。

医学部編入試験は、在学中の指導教授の推薦状が必要だったり、医学部受験レベルで学力が必要だったため、編入試験のための特別講座を受講し半年ほど寝食を忘れるほど、勉強をしたのですが、元々が狭き門で倍率が高すぎるためか、結果は不合格でした。就職をせずにもう一年間、受験勉強をして医学部を受けようかどうかしばらく考えましたが、生活のこともあり、大学を卒業してから一年間受験だけに集中することが難しく医学部編入を断念しました。

「それでも医療との関りをもつ仕事をしたい」

それでも医療との関りをもつ仕事をしたいと思い、狭心症など心臓を治療するカテーテルやステントなどの医療機器を幅広く扱う医療機器総合商社へ入社しました。

医療機器を扱うことで医師が患者さんと接して治療している姿をみてきました。当初は、医療機器を扱うことで患者さんが治ることのサポートをしていることに満足していました。しかし、時間がたつに従って、昔医師に憧れていたことから、自分で治療をしたいという思いが強くなっていきました。

そんな中、家族みんなで千葉へ旅行に行く機会があり、成田山新勝寺へお参りしました。千葉へ行く道すがら、医師に憧れていたことを知っている母から、将来今のままで良いのかと聞かれていました。母からは、常日頃から「世のため人のためになれる人になりなさい」と言われてました。本堂でご本尊の不動明王の前でお参りをしている時に、ふと頭に浮かんだのは、自分が昔鍼灸で痛みが楽になったことでした。『自分で治療ができる』『世のため人のためになる』この二つを考えたときに、医師だけでなく世の中の人を治療する方法があるということに気が付き『鍼灸師・柔道整復師』になることを決意しました。

とはいえ、現在の妻である当時の彼女へ会社を辞めて、鍼灸師への道を志すことを伝えると猛烈な反対にあいました。妻の思い描いていた将来は、勤めていることを前提で考えていたものだったので、突然の会社を辞める発言は晴天の霹靂だったのだと思います。結婚や生活のことを考えると当然のことだったと思います。

妻と将来を考えていただけに、反対されたことで心が折れかかりましたが、私の強い思いで説得することで、なんとか理解をして貰えました。このとき賛成してくれたことが、現在の私の天職につながっていますので、本当に妻に感謝しています。

鍼灸の専門学校へ入学して、必死に勉強しているときに、父のすい臓ガンが発覚しました。父のガンを鍼灸でどうにか出来ないかと考えているときに気がついたことがありました。それは、「専門学校は国家資格を取得するところであって、免許取得後、患者さんを治療してきちんと痛みを取り除けるかということは別だ。」ということです。

専門学校では、解剖学や生理学などの知識を学ぶことができたのですが、実際の現場で役立つ治療方法をまったく知らないということに気が付きました。当初は、国家資格を取得すればある程度治療が可能になると考えていたので、めちゃくちゃ焦りました。

父をすい臓癌で亡くしたあと、何もできないことが悔しくて鍼灸治療で身体の悩みを抱えている人たちの役に立つためには、自分の核となる治療法が必要だと考えるようになりました。

それからは、学校の勉強と学校以外で治療技術を学べる場へいろいろと参加するようになり、今の治療の基礎が形作られました。

鍼灸整骨院で勤めて臨床の場に出て、学生時代に学んできてきたことを自分の中で咀嚼して患者さん一人一人にあった治療をして行くことで、日々自分のレベルがアップしていくことを実感してきました。

自信がついたころに雇われで院長に就くことになりました。オーナーと二人で切り盛りしていましたが、オーナーは忙しくお店にいないことも多く、実際は私一人で治療をしていきました。

しかし、いちスタッフとして働いているときとは違い、お店のチラシ作り、ホームページ管理などの治療院の運営に関わる仕事が増えていき、自分自身が思い描く治療にだけ集中していればよいという状況ではなくなってしまいました。

このままでは自分がやりたい治療に集中出来ないと思い、お店を飛び出し開業し、自分自身の理想の治療で、お身体にお悩みを抱えておられる方ときちんと向き合えるようにしました。

私の痛み治療における原点、それは・・・

自分の交通事故を起こしたことから腰痛で苦しんだ経験、そして、父のすい臓がんでの他界など現代医療では、解決できないことに対して疑問に思うことを追究していった結果、現代の病院では現状維持でどうすることも出来ない病気・症状を解決したい。

病院へいっても症状があまり改善しない、常に悩みを抱えておられる患者さんに合わせた最善の施術をすることを心掛けております。

当院では、痛みの原因となる筋膜でつながった筋肉と東洋医学から診た体の異常を手技と鍼灸を用いるオリジナル施術を行います。

筋膜の治療は、運動時痛があるときに関連部位と筋膜でつながった筋肉を刺激して痛みがあるかどうかを確認し、痛みが変化した場合、その筋肉を治療します。

東洋医学での治療は、東洋医学の独特な診察法で状態を確認し、異常がある部位をツボと呼ばれる場所へ鍼やお灸をして治療します。

筋膜はレントゲンには映りません。東洋医学も機械では測定出来ません。実際に患者さんのお体に触れて評価をすることによってはじめて筋膜の治療も東洋医学の治療も効果を発揮します。

安心して私にあなたの夜間痛をお任せください。


田中さんありがとう

2018-07-08 [記事URL]

主原町6-32

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